私にとって写真とはハードディスクのようで、何があったか、何を見たか、何を思ったか、私のすぐ忘れてしまう脳みそではおぼつかない記録/記録を写真に委ねている、そんな感覚がある。

一人の時間が多かった時はたくさん写真を撮っていた。対人で使わない分のメモリを、目の前の景色を見ることに大きく割いていたような気がする。今の私がカメラロールを見返すとびっくりするくらいの頻度と量の自撮りもしていた。興味の矛先が自分と身の回りの景色だった。それが悪いとは今の私は思わないようで、寧ろその感覚は薄れて消えかかっている感覚であることに気づき、焦るような気持ちでいる。毎日のように自分を凝視している分今より見た目にストイックで可愛く見えるし、その頃に撮っていた写真は今よりも目の前にあるものを見落とさずにいられているような、今その景色があっても見落としてしまっている気がする写真がたくさん収められている。たくさん撮っているからか今よりも収め方も鋭いように感じる。外面のいい写真ばっかり撮る癖はその頃からあるから、勝手に過去を美化してしまっているだけなのかもしれないけれど。とにかく、その頃の私は自分の見目と周辺の景色を見る力が、確実に今よりもあった。でも、何を見たらいいのか、目の前も自分の現在地も見えなくて、とりあえず”いいかんじ”を辿って辿って、ずっとぼやけた沼を掻いているような、無闇な感覚だった。
今の私は今の私で悪くはない。撮る写真は目の前に置いた/置かれた食べ物ばかりで写真を撮らない日さえある。最近の生活をする日々のカメラロールを見返すとただ目にいい瞬間ではなく、何かを思ったから撮ったその瞬間にそう見えた写真、みたいなのが多い。自撮りをする頻度は歳を少し重ねたというのを加味しても極端に減って、カメラロールを1ヶ月分スクロールして1回あるかどうか、それも”いかに自然にかつ最大限きれいにみえるか”を意識し数十枚撮って厳選していたあの熱量はなく、いつもより少し小綺麗にして外に出た日にぴかんと晴れていて嬉しかったからその気持ちを記録したくて撮ったような自撮り写真が1枚だけ挟まっているくらい。見た目はいかに心とからだに違和感なく楽かどうか、全く見目を気にしないわけではないしそりゃあいつだってかわいくいたいしもちろんその時々の気分に沿ったものを選ぶけど、これとこれをしておけば自分の中で不合格にならなくて、周りからの目を極度に気にしなくていい、自分も周りも楽でいられる格好の最適解をなんとなく見つけたのでそれに収まる範囲で現状維持をし続けている感じ。何を嫌だと感じているのかをこの歳にしてやっと自覚し、身体的な不快を極限まで取り除けるようになった。そんな選び方ができるようになった。なにがなんなのか分からないあの怖さがだいぶなくなった。
毎日を人と過ごしていると、一人で過ごしている時よりも考えることが多い。ごはんのこと、時間のこと、家のこと、一人の生活でももちろん考えることだけれど、自分とあと一人の重なるところを見抜いて行動を決める必要がある。それは大変脳みそのメモリを食う。けれど確実に一人では辿れないルートだ。一緒に生活を築いていきたいし、喜んで欲しいし、楽でいてほしいし、頑張って欲しい。その環境を作り続けたい。それがちゃんと全部できているかと自問して気持ちよくはいと言い切ることはできないけれど、きちんと楽しく過ごせてはいる。大変幸せなことだ。

つい現状維持に流れてしまう。刻々と時は過ぎるのに現状維持をしているだけでは時に流されてしまう。現状維持にだってメモリとエネルギーは必要で、それだけでやっている気になって満足してしまう日が多い。自分にとっていいことではないとわかってはいるのに、つい。一日の流れでご飯を作って食べてふう、となった気持ちでパソコンを開くのも、体力作りの筋トレで一つ前の駅で降りるのも気が重い。しなきゃ、とは思っている、でもそのしなきゃって感覚がどうしても苦手なんだよな、わかってはいる。あまったれている。言い方次第ではあるにしても他人との暮らしでつい受動的になってしまう質だということも自覚している。ふんっ、と一つ踏ん張って、自分から動かなければいけない。こんなことを書いている今の自分が情けない。
自分の不快を受信できるようになってから、やっと快もわかるようになった。何が見たいのか、何が知りたいのか、やっと。やはり人生物心をつき続けている。自分を動かすうるおいのガソリンと時の流れに置いて行かれないくらいの資本と健康な体を全て揃えなければ。適当なおすすめでメモリを消費している場合ではない。確かな地面を踏み続けたい。

